束の間の出来事

考えたことを忘れないようにするためのもの。

始めに

 このブログの趣旨と、書いている人について。

 

 このブログは私が日々の中で思ったことを独り言のように書き出すものです。800~1000文字くらいの文章を書くのに慣れたらいいなあと思って始めてみました。

 たまに読んだ本とか、行った場所の感想を書けたら良いなあ。

 

 書いている人は、都内の私大の学部生です。哲学を学んでいます。興味分野は快楽主義、実存主義ジェンダー、性の哲学あたり。それと発達障害、LGBTQにも関心があり、お勉強しています。

 趣味は読書とゲームと人と話すこと。最近本の虫がぶり返してきた。好きな作家・評論家はよしもとばなな山田詠美、原田宗則、外山滋比古など。

 漫画も大好きで、日常を描いているものに強く惹かれます。有名どこだとよしながふみさんの「昨日何食べた?」とか。

 

 こうして自分を振り返ってみると、インドアな人間だなあってしみじみと思った。人と話すときはやたらとやかましいから自分でも忘れるのだけれど。

日記を見るということ

 

 日記、というものが好きだ。とりわけ自分が話したことのある人の日記が好きだ。けれど誰が書いたか分からない日記というのも惹かれる。フリーゲームとかで、見知らぬ人の日記を手がかりに物語を進めていく…という感じのシチュエーションがあると本当にわくわくしたものだ。

 

 私が中学生のとき、自分でブログを作るのが流行っていた(Amebaとかフォレストとか)。思えば他人の日記を覗くというのはここが原点なのかもしれない。

 当時部活が同じで仲の良い友達がいて、彼女をMさんとしよう。Mさんはよくブログを更新していて、私はよく覗いてはコメントしていたものだった。正直、他の誰かから見れば他愛もない内容だったと思う。中間考査がどうだったとか、親にゲーセン行き過ぎて怒られたとか、塾で一緒に〇〇ちゃんと帰ったとか。でも、それを見るのがやたらと面白かったことを記憶している。

 

 そういえば大学の同期の人のブログを見た時にも似たようなことを感じた。同じ学科の親しい男友達がたまたまTwitterにブログのリンクを張っていたので見たことがあった。普段会話でしか交流しない彼の文章を見たとき、「おお」と感心させられた。この人は文章だとこういう話し方なのか、とか日々の中でこういうことを考えたりするのか、と。不思議な気持ちだった。

 

 人の書いたを日記見る時、私はその人の考えたことを微かに垣間見る。その人が日々の出来事を反芻し、残したいと思ったことをその人の思うがままに書く。独りで向き合ったその記録を眺め、一体何がこの記録を残すに至らしめたのだろうと思いをはせる。きっと、私はそれが好きなのだろうと思う。

 

 そういえば、日記という訳ではないがこの記事を書いていて「ヒューマンライブラリー」という言葉を思い出した。

 

tabi-labo.com

 

 あらゆる趣味嗜好、個性、背景を持った人々が集まり、1人1回30分ほどその「本」の情報、価値観を生の声を通し「読む」ことが出来るというもの。Twitterか何かでその存在を知ったとき、私は今まで自分が何を求めていたのかを無意識のうちに理解した気がする。私は、人に触れることが好きだと思う。

 

 誰もが皆、ページを開くたびにわくわくさせられるような興味深い「手記」なのだ。

 

色鮮やかな葛藤

 12月ももう折り返し地点。2016年はあっという間に終わりそうで、2016年というものを思い返すと、昔と今の自分で明らかに変わったことがあるなあと気付いた。記憶力の向上である。正しくいえばそれは、記憶力ではないのかもしれない(間違いなく中学生や高校生のときの方が英単語を覚えるのが早かったと思うし)。一体なんと呼べばいいのだろうか。

 2016年を振り返るとき、それは2015年の終わりに2015年を振り返る時よりも遥かに、1年の中でどんな出来事があってどんな事を考えていたのかをよく覚えていたのだ。1年というものを体系化するのが前よりも上手くなったのだと思う。それは一体何故だろうか。2016年というものは、2015年に比べて各段にインパクトのある出来事が多かったからかもしれないし、大学という新しい環境だったからかもしれないし、今までに比べて何倍もコミュニティが広がったからかもしれない。

 明らかに失敗したことがたくさんある一年だった。明らかに道を違える多い一年だった。けど、明らかに今まで一番記憶が鮮やかな色彩を持つ一年だった。2016年が始まった私が想像したことは何一つ当たらなかった。私はあの人と一緒にいて、こんなコミュニティの中にいて、こんなバイトをしていて…という未来像と今の私はことごとく異なる。今周りにいる人、好きだと思えること、考えていること、どれも想定外のことばかりである。けれどそれに満足出来ている自分がいて、とても幸せなことだと思えた。

 それは記憶力の向上というよりは、様々なことに対する思索が増えたのだいうべきなのだと思う。そう、思い返すとよく自問自答していた1年だった。自分はこのままで良いのだろうか。自分のこの選択は間違っていなかったのだろうか。よく焦ったし、お陰で間違いもしたし、何か掴んだと思いきやこれは違うと嘆いて、学科の名に恥じずよく悩んだものだった。(哲学科である) しかし、最終的に今自分の手の中にあるものに後悔はないし、2016年はとても良い年だったと思える。

 悩むというのはただただ苦しみしかないし無駄なことだと思っていたけれど、こうして振り返ると良いものだったなと思えるから不思議だ。それだけ日々に懸命に取り組んでいたということなのだろうか。2017年がどうなるかは予想したところできっと想定外のことばかりなのだろうけど、目の前にある出来事に真摯に向き合う姿勢だけは貫こうと思えた。その先には、悩んだ分だけの成果が得られるのだから。きっとそれに気付けたことが2016年の一番の収穫だろう。